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複雑さ

最近,Twitterなどで所謂「バズった」ものを見ていると,簡素なツイートに一見して内容がわかる画像という組み合わせを多く見かける(もっとも、TwitterのTLというのはユーザにかなり依存しているため,一般にそうだということは妥当でないかもしれないが).

近年,社会や現代人がそういった簡素化されたものを好む傾向があるように思われる.

例えばこの日記の読者の中でも,ここまでの文が面倒くさく感じる方もいるだろう(そういう方は,ここまで読む前にブラバしているかもしれない).

 

人々が評価しやすいコンテンツは今や一大産業である.

漫画誌で連載されている作品の中でも、所謂「TLマンガ」が出発点のものも多い.

これは当然評価のしやすさという性質と限りなくマッチした結果である.

 

さて,今回考えるのはそうしたコンテンツで溢れる現代社会,あるいはそれを求め,享受する現代人にとって,複雑さをもつコンテンツがどの程度受け入れられ,またその際どのような印象を持たれるのかということである.

 

複雑さは現代の感覚ではやや否定的に捉えられることが多いように思われる(これはコンテンツの複雑さについての私見であり,社会の複雑さや人々の感性,価値観の複雑さ,あるいは多様性についての意見ではない).

例えば,友人間で特定の問題について議論するときにはなるべく簡素な言葉を用いることがよしとされている.

少なくとも,この日記で用いているような「堅苦しい」言葉を使うことは推奨されない.

こうした考えは友人の枠を超えて,SNS上でのコミュニケーションでも見られる(先述のようなもの).

 

複雑さを否定し,簡素化されたスマートなコミュニケーションを行うことには大きな利点がある.

誰にでもわかりやすい言葉はパワーが大きい.Twitterでのバズはまさにその良い例である.

誰にでもわかりやすい言葉は誰にでも届くということである.

言葉が元来求める力の一つがそこにある.

 

また,誰にでもわかりやすいとは,誰にでも使いやすいということである.

このことは,誰でも大きな反響を得られる発言をし得ることを示している.

 

 

一方で,簡素化を手放しに誉めることはできない.

それは複雑さの利点排除することになるからだ.

 

 

 

かづきする 海女の住処を そことだに

夢いうなとや めをくはせけむ

 

という清少納言の和歌はあまりにも有名であるが,これは複雑さの利点を示す良い例である.ここでの複雑さとは,主題や主張,本質が隠されているということである.隠された主題は人々を思考へと駆り立て,その思考は大きな快感となり還元される.ここに複雑なコンテンツの醍醐味がある.

隠された財宝や亡国の埋蔵金は,歴史上幾度となく人々を終わりのない夢に誘った.我々は隠されている,見えないものにこそロマンティシズムを禁じ得ない.

簡素化されたものには到底表現不可能な愉悦がそこにある.

 

簡素化されたコンテンツが流行しているのは,その利点が複雑さの利点よりも重用されている事実に他ならない.

では,仮に複雑さを捨て簡素さに走るとき,我々はなにを得,なにを失うのであろうか.ここにこそ,現代社会の闇ともいうべき大きな影が潜んでいる可能性に注意を向けなければならないだろう.