お騒がせしている件について
現在お騒がせしている件について,日ごろよりお世話になっております皆様にご心配,ご迷惑をおかけし大変申し訳ございません.
というのがよくあるが,なにでお騒がせしているのか,なにに謝られているのか全然わからず困っている.言及してこれ以上「お騒がせ」したくないのだろうけど.
私の部屋の管理人
世間で自粛が叫ばれ,私の大学でもオンライン講義が行われるようになってから早3カ月.
自室にいる時間が長いため,快適に作業を進められるよう大改造を行ってきた.
その一環として,ルンバを迎えたわけだが,これが予想以上の働きをしてくれている.
というのは,ルンバは掃除ロボットだが,彼の掃除はパトロールのようである.
ベッドの下など狭いところにも入っていけるルンバは,部屋の主である私よりも部屋を見ている.
普段ルンバが問題なく掃除しているところで突然エラーが発生したら,そこでなにか異変が起こっていると予測できる.
実際今日はベッドの支えの部分が落ちていたことを発見し,エラーを叫んでくれた.
本来の目的ではないところではあるが,日々こうした発見を得ながらロボットと協働していくのも面白いものである.
複雑さ
最近,Twitterなどで所謂「バズった」ものを見ていると,簡素なツイートに一見して内容がわかる画像という組み合わせを多く見かける(もっとも、TwitterのTLというのはユーザにかなり依存しているため,一般にそうだということは妥当でないかもしれないが).
近年,社会や現代人がそういった簡素化されたものを好む傾向があるように思われる.
例えばこの日記の読者の中でも,ここまでの文が面倒くさく感じる方もいるだろう(そういう方は,ここまで読む前にブラバしているかもしれない).
人々が評価しやすいコンテンツは今や一大産業である.
漫画誌で連載されている作品の中でも、所謂「TLマンガ」が出発点のものも多い.
これは当然評価のしやすさという性質と限りなくマッチした結果である.
さて,今回考えるのはそうしたコンテンツで溢れる現代社会,あるいはそれを求め,享受する現代人にとって,複雑さをもつコンテンツがどの程度受け入れられ,またその際どのような印象を持たれるのかということである.
複雑さは現代の感覚ではやや否定的に捉えられることが多いように思われる(これはコンテンツの複雑さについての私見であり,社会の複雑さや人々の感性,価値観の複雑さ,あるいは多様性についての意見ではない).
例えば,友人間で特定の問題について議論するときにはなるべく簡素な言葉を用いることがよしとされている.
少なくとも,この日記で用いているような「堅苦しい」言葉を使うことは推奨されない.
こうした考えは友人の枠を超えて,SNS上でのコミュニケーションでも見られる(先述のようなもの).
複雑さを否定し,簡素化されたスマートなコミュニケーションを行うことには大きな利点がある.
誰にでもわかりやすい言葉はパワーが大きい.Twitterでのバズはまさにその良い例である.
誰にでもわかりやすい言葉は誰にでも届くということである.
言葉が元来求める力の一つがそこにある.
また,誰にでもわかりやすいとは,誰にでも使いやすいということである.
このことは,誰でも大きな反響を得られる発言をし得ることを示している.
一方で,簡素化を手放しに誉めることはできない.
それは複雑さの利点排除することになるからだ.
かづきする 海女の住処を そことだに
夢いうなとや めをくはせけむ
という清少納言の和歌はあまりにも有名であるが,これは複雑さの利点を示す良い例である.ここでの複雑さとは,主題や主張,本質が隠されているということである.隠された主題は人々を思考へと駆り立て,その思考は大きな快感となり還元される.ここに複雑なコンテンツの醍醐味がある.
隠された財宝や亡国の埋蔵金は,歴史上幾度となく人々を終わりのない夢に誘った.我々は隠されている,見えないものにこそロマンティシズムを禁じ得ない.
簡素化されたものには到底表現不可能な愉悦がそこにある.
簡素化されたコンテンツが流行しているのは,その利点が複雑さの利点よりも重用されている事実に他ならない.
では,仮に複雑さを捨て簡素さに走るとき,我々はなにを得,なにを失うのであろうか.ここにこそ,現代社会の闇ともいうべき大きな影が潜んでいる可能性に注意を向けなければならないだろう.
密です
3つの密「密閉・密集・密接」,所謂3密を避けることが重要であるとされている.
東京都の小池知事がぶらさがりで「密です!」と言ったことは記憶に新しい.
近頃,「密です」は名詞になってきている感がありおもしろい.
「あそこは『密です』だから行かないほうがいい」とか,
「そんなに近づいたら『密です』だよ」とかといった感じで,
名詞として使われてきているのだ.
他にも関連で面白いのは「ソーシャルディスタンス」だ.
これなどは長い横文字のインパクトが強く,必殺技のように叫ばれる.
不愉快なことが多いこの状況,言葉遊びでもしていないとやっていられない.
名詞にしてみたり,必殺技にしてみたりして遊び,それを考察して遊ぶ.
楽しもうと思えばネタは沢山あるし,もっと勉強すればネタになることも増えるのだろう.
勉強の意味の一つを見出した気がした.
感性への憧憬
月が非常に大きく出ていた。
恥ずかしいことにぼーっとしていることが多いので、ふとそんなところに目が行くことがある。
空き地の横を通ったとき、もうそろそろ帰らなければならないのであろう子どもが友達と思しき子どもに「月が近い」といった。
成程、近いのか。
そういう感性への憧憬を抱いた。
柔軟な発想
こんなご時世だから、オンラインで行っている家庭教師での出来事。
連続する2整数の平方の差について言えることを予想し、証明するという問題。
連続する2整数をそれぞれn、n+1と表現すると、その平方の差
(n+1)^2-n^2=n^2+2n+1-n^2
=2n+1
となる。
2n+1といえば、高校1年以上の読者なら「奇数」を思い浮かべるのではないだろうか。
筆者も「成程連続2整数の平方の差は奇数になるのか」と思った。
しかし、指導している中学生はこれを「2ずつ増える」と解釈した。
その通りである。
むしろその解釈はnについてより適格に表現できている(本人がそこまで意識してこの予想を立てたかは別として)。
世の中、セオリー通りでは思いつかないこともある。